ただのまるい君が愛しい

我が家には2歳の息子がいる。

そんなことできるようになったの?
そんなこと話すようになったの?
そんな風に考えるようになったの?

毎日一緒に過ごしていても変化に気づくくらい、どんどん成長している。

よく「よそのお家の子の成長は早い」と言う。
ぼくも驚かされることが多い。

下の子が生まれて、いつのまにかお兄ちゃんお姉ちゃんと呼ばれるようになっていたりする。
この春小学校に入学したと聞いて「えー?もうそんなになるんですね?」と驚いてばかりいる。
みんなどんどん成長していく。

毎日顔を合わしている我が子でもこんなに早いのだ。
子どもの成長は本当にあっと言う間だ。

Image by Juraj Varga from Pixabay

息子の成長を感じるたびに思い出す、息子の姿が2つある。

1つは、生後4〜5ヶ月の頃。
寝返りに挑戦しがんばっている姿だ。

誰の力にも頼らず、自らの力でごろんとするはじめの一回が、
もしかしたら今起こるかもしれない。

いつもそんな期待を抱きながら、
スマホをかまえながら応援していた。

寝返りをしようとする姿に特別な印象がある理由は、
きっと一人でなにかをできるようになるためにがんばる最初の姿だからだ。

あれから2年の中で、ハイハイができるようになり、
立てるようになり、歩けるようになった。
最近は、活発に走り回ったり、なにかによじ登ったりもする。

自分の力でなにかができるようになる姿を見ると、
寝返りに挑戦する姿を思い出して懐かしい気持ちになる。
そして成長をかみしめる。

また、運動面だけではなく、
話すことや考えていることに驚かされる。
かるたやパズルで上手に遊ぶ姿を見ていると、
夢中になることをできるだけ応援していたいなと思う。

こういったところに成長を感じるたび、
寝返りとはまた違う姿を思い出す。

息子の成長を感じるたびに思い出す、息子の2つ目の姿。

それは、妻のお腹に息子が授かったと分かったときのこと。
はじめて病院にいって、エコーで画面に映った姿だ。

白黒の丸い部分を先生が指して、
「赤ちゃんいますよ!」と言った。

丸いかたちをした命が、トクトクッと動いていた。

ぼくはそのときあまりに感動して、思わず出た言葉があった。

それは「かわいい」だった。

「いや、まだただの丸!」

すぐに笑いながら妻のツッコミが入った。

ぼくの親バカっぷりは、早くもこの瞬間から開花してしまった。

だけど、本当に誰がなんと言おうと、ぼくには間違いなくかわいいい見た目と動きだった。
そして、存在してくれていることをかわいいと思った。
存在自体が愛しいという感覚とは、こういうことなのかと分かった。

ぼくは、あのときから大切にしていたいと思うことがある。

これから先、息子のできることが増えても、
息子を大切に思う気持ちが増えるわけではく、
ずっと変わりなく同じように大切に思うということ。

きっとこれから息子は成長する中で、
一つひとつできることが増えていく。
色々とできるようになるのはもちろん喜ばしいことだ。

だけど、できることを喜ぶうえで、意識していたいことがある。

「こんなことができるから」「良い子だから」といった具合に、
無自覚に条件付きの愛情になってしまってはいけないということ。

注ぐ愛情の量が増えるということは、
言葉の響きだけを見ると良いことのようにもとれる。
でも、そんなことで変動する愛情だとしたら、
できないときには注ぐ量が減るということでもある。

また、息子の行動によって親があからさまに態度を変えると、
親の顔色を伺って自分を押し殺して生きる癖がついてしまわないかと思う。
そんなこと絶対にあってはいけない。

息子の成長を感じるたびに、
ぼくはそのことをもちろん心から喜んでいる。
すごいなと思う。
そしてたくさん勇気を与えてもらっている。

でもそのたびに、あのとき病院で見た息子の姿を思い出している。

なにかができるようになるからではなく、
良い子で成長しているからではなく、

「ただのまるい君が愛しいよ」と思っている。


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